三淵嘉子が子供を育てるために選んだ道!裁判官と母親の二つの顔!

三淵嘉子

2024年4月1日から放送が開始されるNKH連続テレビ小説「虎に翼」の主人公猪爪寅子のモデルとなった、
三淵嘉子さん。

女性として初めての法律家として有名でもあります。

そんな三淵嘉子さんの生涯や子供についてまとめてみました。

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目次

三淵嘉子ってどんな人?

引用元:明治大学

大正3年11月13日にシンガポールで誕生します。

2023年10月2日~2024年3月29日の間に放送されていた「ブギウギ」のヒロイン・スズ子のモデルとなった笠置シヅ子さんも同じ大正3年生まれです。

三淵嘉子さんの父親は台湾銀行に勤務っしていた武藤貞雄さんと(東京帝国大学卒)と母親はノブさんです。

三淵嘉子さんは2人の長女として誕生しました。

「嘉子」という名前の由来は、シンガポールで生まれたことからシンガポールの漢字表記「新嘉坡」から引用したものだといわれています 。

引用元:LIFEJOURNEY

その後、父親の武藤貞雄さんは、ニューヨークへの転勤を命じられることになります。

父親がニューヨーク勤務の間、三淵嘉子さんたちは、父親の出身地である香川県の丸亀市で生活をしていましたが、大正9年に父親が帰国すると一家は揃って東京都渋谷区に生活の拠点を移しました。

余談ですが、2023年4月3日から放送されていた「らんまん」は高知県が舞台、2023年10月2日から放送されていた「ブギウギ」のモデル笠置シヅ子は香川県出身、そして今回の「虎に翼」も香川県が関連しているので、
3作品連続して、四国繋がりの作品が続きます。

三淵嘉子の学歴・父の教育方針

引用元:PORTFPLIO
父・貞雄の教育方針

「ただ普通のお嫁さんになるような女性にはなるな。政治でも、経済でも理解できるようになれ、それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士なんかはどうか」

大正の時代がどんなものなのか、実際に体験していないので想像でしかないですが、
きっとこの令和の時代より「男らしく、女らしく」が強要されていた時代ではないのでしょうか。

そんな時代の中で、こんなアドバイスをしてくれる父・貞雄さんは先見の明がある方だったのでしょう。

いわゆる良妻賢母ではなく、今でいうキャリアウーマンとして自立する女性となるように諭したのですね。

父・貞雄の教育の甲斐あってか、三淵嘉子さんは昭和7年にお茶の水大学付属高校の前身である東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学します。

引用元:wiki

東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した後で、法律を勉強しようと決意したそうです。

三淵嘉子さんが法律を勉強しようと決めたきっかけは、昭和8年に弁護士資格が改訂され女性も弁護士となることが認められたという背景があると言われています。

昔は女性というだけで職業も制限されていたんですね・・・。

そして、明治大学短期大学の前身である明治大学専門部女子部を経て、昭和10年に明治大学法学部へ入学します。

明治大学法学部は当時、女性が弁護士を目指して法律を学べる唯一の学校

ちなみに、三淵嘉子さんの母・ノブは法律なんかを勉強していると嫁の貰い手がいなくなると泣きながら猛反対していたというエピソードがあります。

昭和13年に高等試験司法科試験に合格、明治大学を卒業します。

昭和15年に明治大学同窓の中田正子さん、1年後輩にあたる久米愛さんと共に日本初の女性弁護士となられます。

引用元:北斗書房

三淵嘉子、和田芳夫と結婚し出産

引用元:PORTFPLIO

昭和13年11月に三淵嘉子さんの実家に書生として出入りしていた和田芳夫さん(明治大学卒業)と結婚します。

書生とは、勉強する余裕のある者という意味合いだったが、日本では主として明治・大正期に、他人の家に住み込みで雑用等を任される学生を意味した。

引用元:wiki

昭和18年1月には第1子で長男の芳武さんが誕生しました。幸せ絶頂かと思われますが、昭和1#年6月に夫・芳夫に召集令状が届いてしまいます。

三淵嘉子さんは、空襲で家を焼かれ、幼い息子・芳武さんを抱えながら逃げさらには福島へ疎開するなど、苦しい生活を強いられることとなりました。

太平洋戦争(昭和16年12月8日から昭和20年9月2日)が終戦した、昭和21年5月に夫・芳夫さんが上海から戻ってくる道中に長崎で病死したことを知らされます。

夫の死を受けて、経済的自立を目指す

夫・芳夫さんが亡くなったことが、三淵嘉子さんを法律の道へ進むことの背中を押すきっかけとなります。

シングルマザーとなった三淵嘉子さんは「経済的に自立しなければ」と考えたのかもしれません。

世の中はそんなに甘くなかった

終戦により男女平等の世の中になったのだから女性も裁判官に採用される世の中になったはずだと考え、昭和22年3月「裁判官採用願」を司法省に提出しますが、不採用だったそうです。

三淵嘉子は再婚していた

引用元:PORTFPLIO

三淵嘉子さんは、昭和31年8月、当時、最高裁調査官であった三淵乾太郎さんと再婚します。

三淵乾太郎さんは前妻を病気で亡くしており1男3女のシングルパパだったそうです。

三淵嘉子さんは、

武藤嘉子

和田嘉子

三淵嘉子

と名前が変わっていたことがわかります。

三淵嘉子の職務経歴

女性弁護士の誕生

東京弁護士会での1年半の弁護士試補の修習を終えた昭和15年6月に弁護士登録をし、女性弁護士・嘉子が誕生しました。

昭和15年7月から母校の女子部法科の助手となります。

しかしその頃、日本は第二次世界大戦に突入します。昭和16年になると、民事事件の数は大きく減少して、弁護士としての活動はほとんどできなかったそうです。

昭和19年8月には、母校の女子部法科の助教授となって、後進の指導に当たりました。

裁判官採用願を提出

終戦後の、昭和22年3月に裁判官採用願を司法省に提出しましたが、裁判官としての採用は許されませんでした。

坂野東京控訴院長から裁判官としての仕事を学ぶため、しばらくの間、司法省に入って勉強するように勧められたため、司法省民事部に入ることとなりました。

当時は、資格を満たせば裁判官になれた男性に対して、女性は下働きをしなければ裁判官にはなれなかったという時代背景があります。

初の女性裁判官に就任

その後、最高裁判所発足に伴い民事部第三課へ。家庭局創設に伴い親族法・相続法などの問題に携わりました。

昭和24年、東京地裁の判事補となり、石渡満子さんと共に念願の初の女性裁判官に就任されました。

昭和27年、名古屋地方裁判所で初の女性判事に就任。

昭和31年、東京地裁判事となり、広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当。

昭和38年~昭和47年まで、東京家庭裁判所判事として合計5,000人以上の少年少女の審判を担当。

昭和47年、新潟家庭裁判所長に任命され、初の女性家庭裁判所長となる。

再び弁護士として

昭和54年に裁判官を退官し、昭和55年に再び弁護士として活動を始めました。

三淵嘉子69歳で逝去

弁護士として再び活動していた三淵嘉子さんですが、
昭和59年5月28日に69歳で生涯を終えられました。

昭和58年頃から肩や腰の痛みに悩まされていたそうです。精密検査を受けて骨癌であることがわかりました。

この時、息子の芳武さんは三淵嘉子さんからの希望を聞き入れて、本人に検査結果を知らせたそうです。

東京の青山葬儀場で行われた告別式には、およそ2,000人近くが駆け付けたそうです。

まとめ

NKH連続テレビ小説「虎に翼」の主人公猪爪寅子のモデルとなった、三淵嘉子さんについてまとめてみました。

・1人目の夫・芳夫さんを病死で亡くしている。
・2人目の夫・三淵乾太郎さんと再婚。
・「女性初の〇〇」という肩書が多い。
・69歳で亡くなる

当時、まだ今ほど男女平等の時代ではない頃から活躍されていた三淵嘉子さんは女性としても母親としても尊敬する女性ですね。

ドラマで三淵嘉子さんがどのように描かれるのかが楽しみです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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